-宿題のない夏休み・小笠原体験記その1-
1993年9月、私の身体は悲鳴を上げていた。
寝込むほどではないが、身体中を不快感が走り回っている。
腹痛、腰痛、頭痛に喘息とまるで「軽い不調」の見本市。
軽い不調も一度に症状が出てくると身体の置き場がないくらい辛い。
毎晩疲れ果てて部屋に戻り、倒れるように眠りにつく。
身体が金縛りにあったように重い。
寝ることだけが唯一の安らぎのような毎日なのに、寝入って数時間後に息が止まる。
「くっ、苦しい…!」
もうこれで終わりかと想った思った瞬間に目が覚める。
睡眠時無呼吸症というれっきとした病気らしいが、その頃は病気だなんて思いもしなかった。
「人は、深く眠ると呼吸の仕方を忘れる」そう信じていた。情けない話である。
いったい、私の身体に何が起こっているというのか。
そのうち精神状態も怪しくなってきた。
街を歩いていると突然悲しくなりぼろぼろと涙がこぼれて来る。
子供の頃、友達とケンカしたことを急に思い出し「私は嫌われてる」と果てしもなく落ち込む。
このままではかなりまずい。
上京して14年、いつも全速力で走ってきた。
歌い手の仕事は順調に進んでいたが、自信が持てずにいつも何かに怯えていた。
そして、それを他人に悟られるのが何よりも怖かった。
明るく笑って強い自分になろうとしたけれど、もう限界。
私は心底疲れていた。
全て捨ててしまいたい。みんな放り投げて一からやり直したい。
そう思うと居ても立ってもいられなくなった。
「ごめんなさい、もう出来ません」
あらゆる仕事先にそう言い残して、私は東京から消えた。
お世話になった方々に多大な迷惑をかけるのだ。二度と仕事が出来なくなることは覚悟の上だった。
それよりも、自分自身から逃げたかった。
出来るだけ遠い所へ行こう。今の環境とはまったく違う場所へ行くんだ。
その時唐突に、今は離れて暮らす弟の声が脳裏に響いた。
「姉貴も行けば良いのに!オガサワラ」
オガサワラ…?そうか!小笠原諸島か。
数年前、弟が会社の出張で渡った島だ。東京から1300キロも離れている小さな島々。アクセスは船のみ。しかも片道28時間以上もかかると言う。
「遠いよなぁ…オレ、もう戻って来られないかも…」
涙目になって弟は出掛けて行った。なのに、2週間後陽に焼けてツヤツヤした顔で帰って来た弟は別人のように引き締まり、輝いて見えた。
「うっそぉ~!たった2週間でこの成果!!」
「いや~~そうなのよ!天国天国!オガサワラ、最高~!!」
もともと解り易く出来ている人間なので、これほど呆気なく効果が出たのだろうと、その時は聞き流していたのだが、今になって彼の楽しそうな声が蘇って来る。
「オガサワラか…」
そこは古びた私を捨てられる場所だろうか。弟の言う様に天国なのだろうか。
私は、小笠原行きの船のチケットを買った。
竹芝桟橋は重い雲に覆われていた。
小笠原へは唯一の定期便「小笠原丸」に乗り込むしかない。
9月末の乗客は少なく、船底に近い3等客室は閑散としていた。
広いカーペット敷きのフロアに、人ひとりが眠れる大きさにたたまれた毛布がお行儀良く列を作って並べられている。
その間にてんてんと金属製の洗面器。
ここで雑魚寝をして見知らぬ人と28時間も過ごすのだと思うと、自分の惨めさがより一層強調されるようで辛かった。
その上、何の為に用意されているか解らない金属の洗面器が、侘しさに拍車をかけ、泣きたいような気分になっていた。
ともかくここから始まるのだ。あとは成り行きに身を任せるしかない。
ドラが激しく鳴らされた。
今でも出航の合図はドラなのかとちょっと驚いたが、そんなことにはお構いなく船はゆっくりと桟橋を離れた。
「しまった…!」
出航してからほんの数十分で、早くも全身が後悔に包まれた。
強烈な船酔いに襲われたのである。しかもあいにくの悪天候で海は荒れ狂い、立つことすら出来ない。
船底の床に張り付き、毛布にくるまったままフロアの片隅で泣き続けた。
気持ち悪すぎて身動きすらとれない。何も飲まず食べられず一睡も出来ないまま、嘔吐用に置かれた洗面器だけを抱え、実に29時間半の船旅に耐えた。
「小笠原諸島父島にまもなく到着致します」
翌日、船内にアナウンスが流れた。神様の声のようだった。残った力を振り絞り、ふらふらとデッキに這い上がった。
その瞬間、目の前に開けた景色に仰天した。
「うぁ!青!すっごい青!!紺碧の海!ううわぁ~~!初めて見た!」
辺りの人が振り向く程、素っ頓狂な声を出してしまった。
南の海の青さをこの時初めて知った。この深く激しい青。
何度もテレビや雑誌で見慣れていたはずの海だったが、本物を見るのは初めてだった。
これがほんとうの海の姿なのだと思った。
太陽が真っ直ぐに照りつけている。とびうおがキラキラきらめきながら飛んでいる。
イルカが群れをなして船の周りで遊んでいる。
くらくらした。船酔いのせいばかりではない。はじめて見る物ばかりだ。
すごいところに来ちゃった。正直にそう思った。
この青を見ただけで、心と身体に長い間溜め込んでいた澱のようなものが、一気に浄化されたような気がした。
私の選択は間違っていなかったと、確信した。
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